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オレゴン訪問(その5)

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オレゴン訪問記

コンテンツ掲載日:2005年01月23日
最終更新日:2007年02月20日

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◆その5

ボーイング社の工場

その翌日、世界有数の航空機メーカーであるボーイング社を訪れました。「ジャンボ」と呼ばれるB747型機の製造ラインを見学しましたが、工場稼働率はテロ事件の後遺症に苦しんでいるためか、約30%という低さ。ギネスブックに掲載されたという社屋の巨大さ、定年・男女の待遇差別は共になしというわが国では考えられない諸条件には驚かされます。ちなみにここを見学する際、カメラやビデオの持ち込みは厳しく禁じられています。この写真は工場見学のパンフレットに刷られていたものですが、ご覧のように工場の巨大さが一目瞭然です。

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シアトルの路面電車

ボーイング社を訪れた後は、めいめいが自由行動となりました。市内の交通機関に関心がありましたので、まずは路面電車(Street Car)に乗車。オーストラリアはメルボルンからやってきたクラシックな電車が活躍していました。

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路面電車の内装

木材がふんだんに使われていた路面電車の内装。「ウォ〜ン」と唸るような、なつかしい昔の電車の音をたててお客を乗せています。路面電車を下りた後は、ユージーンで見損なった旅客列車ことアクトラックを見物しようと、キングステーション(King Station)までやってきました。ここでアムトラックとついに感動の対面を果たせました。ちなみに駅の構内では写真の撮影が禁止されていました。この後は地下トンネルを走るバスにも乗車しました。

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フェリーの甲板

次に、フェリーにゆられて対岸の島まで渡ってみました。抜けるような青空はユージーンにいた時から見慣れていましたが、やはり見ていて爽快の一言。しかし、陸にいる時は暑くても、航行中の甲板やデッキの上では寒さに身の縮むような思いをしました。

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タコマ富士

フェリーから見たマウント・レーニア(Mt.Rainier)。その形が富士山に似ているので、戦前の日系移民たちから「タコマ富士」の異名を頂戴しました。標高は14,410フィート(4,370m)ですから富士山よりもずっと高い山になります。雪をいただいているように見えますが、あれは実は氷河。夏には黒くなってしまう富士山とは違って、この山は年中白いままです。この日はアメリカで過ごした最後の日。翌日の8月31日、いよいよ帰国の途に就いたのでした。

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■余談(1) 〜自分と家族のこと〜

「今度の短期留学の引率をキミにお願いすることになったので、ヨロシク。」
その話は五月の連休も終わり、日常のペースが戻ってきた頃に聞かされました。
「まじッスかぁ?」今時の若い世代なら開口一番こう口走るのでしょうが、まさにそんな気持ちでした。
「妻と小さな息子を置いて一ヶ月間家を留守にしろっていうの?」
「向こうは犯罪大国。いきなり銃なんかで『ズドーン』とやられたらおしまいだな。」
「イスラム組織なんかのテロに狙われるんじゃない?飛行機乗るの大丈夫か?」
「観光じゃなくて仕事で行くんだよ。向こうへ行ったら英語話せるのかよ?」
いろいろ否定的な思いが駆け巡りながらその日一日が過ぎていきました。そしてそれが何日も何日も。
家に帰ってからその日にあった出来事を告げると、妻は私以上に驚き、不安の色を見せました。
これから家を空ける自分自身のことよりも、残される彼女をいかにして平静を保たせるか、そちらの方が課題であることを感じさせられました。
出発の日は容赦なく、着々と迫ってきました。
今から思い出すと、自分にとっては、子どもや家の事に振り回されて思うように出発の準備がはかどらなかったことが一番の苦痛でした。
留守中は、妻と息子には三重の実家に行ってもらうことになりました。息子が幼稚園に入園する前だったのが幸いでした。
帰ってから彼女に聞いた話ですが、留守中は母娘(彼女とその母親)で楽しかったこともあったし、いろいろと本音をぶつけ合ったことも度々あったようです。
また、息子はこの間に言葉をたくさん話すようになっりました。今回の出張の目的は語学留学をする学生たちのケアすることでしたが、この一ヶ月で最も語学力をつけたのは学生たちや自分ではなく、ずっと日本にいた彼だったということが分かり、おかしくておかしくて仕方がありませんでした。
この一ヶ月で息子は動きもさらに活発になり、体格も引き締まってきました。子どもの成長の速さというものを、留守を通じてあらためて感じた次第でした。

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■余談(2) 〜アメリカ人とアメリカいう国について

アメリカ行きは新婚旅行に次いで2度目となりました。たった2回の経験だけしかない自分がアメリカ人とアメリカいう国について評論できる立場にあるとは思っていませんが、今回も自分なりに感心し、一方で深く考え込んでしまったところがあります。
彼らの行動において感心したことのなかに、自分の判断で良いと思ったことは自分の責任で実行するということがありました。
一例を挙げればこんなことがありました。ユージーン市内で学生を連れて野球観戦をし、夜の9時頃に帰路につく時のことでした。UOまでは野球場で乗ったバスを一度降り、乗換えをすることが必要でしたが、たまたま乗り込んだバスのドライバーは、終点に着いてから我々の行き先を聞くと、バスの行き先を「OUT OF SERVICE(回送)」にチェンジしてUOまで無料で送ってくれました。わが国であれば運行規則やらドライバーの就業規則云々が障壁となって、このような行動に及ぶことはまず考えられませんし、これを目にした見た別の市民が「法令違反のけしからんことをしている!」と当局に告発すらしかねないでしょう。
アメリカには私たちの多くが知っているように、訴訟社会というギスギスした面も一部ありますが、一方では相手が喜ぶことなら進んでやってあげようという心意気を持った大勢の人々が、自分のできる範囲でこれを積極的に実行しているという場面をたくさん見ることができました。このような点は十分見習うべきではないかと思います。
人懐っこくて、フレンドリー。初対面の人間とも名前を教えあって陽気に「Bye Bye」を口にして別れるアメリカ人。しかし一方ではイラクに大量の兵力を送って戦争し、毎日のように異国人相手に殺しあっている。これはいったいどういうことだろうか?これについては、いくら考えても首を傾げるばかりでした。反対にこの点では「和を尊ぶ」われわれ日本人がなにか有意義なことを彼らに教えてやれるのではないかとも思いますが。

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