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息子が誕生(その1)

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コンテンツ掲載日:2004年01月12日
最終更新日:2007年02月20日

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◆それはひどい眠気から始まった

お互い結婚生活にも慣れてきた2000年の5月も半ばを過ぎた頃だったでしょうか、あいみの朝起きのペースが乱れるようになってきました。それでも当初の一週間ほどは、本人も「この頃体調がおかしいなあ」と思いながらも耐えていたようでした。その頃調子が悪かったのは午前中が主で、夕方以降は至って元気にしていましたから、私自身も「結婚して1年間、ガムシャラにがんばってきたから、疲れが出てきたのかなあ。少々休めば元に戻るかも。ちょっとの間、自分がガンバルしかないなあ」という程度にしか考えていませんでした。
しかし、5月も下旬頃になると、食欲の低下に加えて元気で過ごせていたはずの午後の体調もおかしくなっていきました。すでにその頃の朝食の支度は私の仕事になっており、夕ご飯の支度も私が一人でするか、彼女の調子が良ければ二人で台所に並んでするようになっていました。
やがて、「もしかして、これが妊娠?」という思いがお互いの頭に浮かんで来るようになりました。しかし、「病院で診察を受けよう」という私の働きかけにも、いろいろな理屈をつけて彼女は耳を貸そうとしませんでした。「医者の診断に翻弄されたくない。病院にかかる以上は、はっきり『妊娠した』という診断をそこで受けたい。」というのがその理由でした。ここまでを聞き出すのにかなりの時間を費やしました。
市販の薬で2回続けて「陽性」の判定が出たことで、ようやく受診を決意したようです。受診先で「妊娠3ヶ月です。おめでとうございます。」との診断を受けたのは、6月の最初の週末のことでした。

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◆必要なのはダンナの分?

妊娠が分かる前から「朝も晩も、彼女の調子が悪いときは、自分が精一杯彼女をサポートしないといけない」と自覚していましたので、自分でやれると思ったことは何でもやりました。仕事帰りにスーパーに寄り、メニューを考え、キッチンに立ったこともしばしば。これまで親元を離れて生活した経験のないわが身には考えられないことです。しかし、せっかく作ったご飯も彼女ののどを通らないので、正直ガッカリもしたものです。彼女が抵抗なく口にできたものがトマトやミカンの類だけでした。妊娠初期に見られる「つわり」だから仕方がないと言えばそれまでなのですが、思い返すにあの頃の自分は、その辺のことを理解しているようで実はしておらず、一人空回りしていたような気がします。
「ヨメは、自分のことは自分で何とかするからまず大丈夫。せめてダンナは身の回りのことを自分でできるようにしておけ。」というのが教訓として残りました。

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◆仕事が修羅場、少々早い里帰り

職場での日中の仕事はもちろん、朝晩の家事をこなすことにもようやく慣れてきた頃、もう一つの大きな問題が発生しようとしていました。私の仕事のスケジュールの問題です。
私は職場を挙げてのプロジェクトを企画・推進する部署に配属されていますので、抱えるプロジェクトが重大な局面を迎える時には帰宅できる時間も遅く、休日返上もやむを得ないという状態になります。
妊娠が分かった頃から、ある程度予想と覚悟ができてはいましたが、まだまだ彼女がつわりの苦しみに耐えなくてはならない時期に、この局面がやってきてしまいました。自分たちの力で何とか乗り切りたいという気持ちがなかったと言えばウソになりますが、結局、仕事がピークの間は、彼女に三重県の紀勢町にある実家へ転地してもらうことにしました。その間の私は、明るいうちに仕事を切り上げて家路につく仲間を横目に、連日の深夜残業をこなす毎日が続きました。
三週間ほど離れ離れの生活になりましたが、環境が変わったのが幸いしたのか、里帰りした途端に体調が復調し、やがて元気な顔で名古屋に戻ってくることができました。

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◆いろいろやっておこうね

食事が満足に取れないという辛い時期が過ぎ、日常の生活をほぼ普段どおりに過ごせる時期がやってきました。お腹のなかに宿った新しい命はどんどん成長し、私たちの夢とともにふくらんでいきました。
新しい家族が増えると二人だけで出かけることが当分無理になるはずですので、スーパーへの買い物からホテルでのランチやディナー・バイキング、映画観賞に温泉旅行など、いろいろと楽しんでおきました。臨月を迎える直前は、彼女の希望もあって、こちらが心配するぐらい連日連夜どこかへ出かけていました。

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◆出産先が決まったし、必要なものも用意っと

わが子の誕生を3ヶ月後に控えた11月に、出産先となる病院を決定し、その病院へ受診に出かけました。これまで検診でお世話になっていた名古屋の産院は、分娩を取り扱っていないということが分かっていました。私たちは当初から里帰り出産を予定していましたので、彼女の実家から最も近い(とは言ってもクルマで1時間少々かかりますが)松阪市の総合病院で産もうと決めたのです。産院で紹介状をしたためてもらい、予定日の3ヶ月前に初めて松阪市の病院で検診を受けました。ここで、出産までのスケジュール(母親学級への出席、検診のスケジュール)を十分に確認し、里帰りをするまでの間は名古屋と松阪の病院で交互に検診を受けました。検診のない週の週末は、産前産後に必要なものを順次買い揃えていきました。

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◆出産間近の里帰り

臨月を迎えると、誰が見ても立派な妊婦さんです。
わが家は3階建てマンションの3階にあり、階段を上らないことには玄関にたどり着くことができません。いつか階段を踏み外すのではないかと、さすがに心配になってきました。そして、日に日に近づいてくるわが子との対面の日は彼女にとって待ち遠しいものの、陣痛から出産までの長い道のりを考えると、不安もふくれあがってくるというものです。
12月の最初の日、彼女には里帰りしてもらい、私たちの別れ別れの生活がふたたび始まりました。

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◆予定はあくまで未定

初めて産院にかかってから臨月までの間、「おなかの赤ちゃんの発育はすこぶる順調ですよ」といううれしい診断に励まされてきた私たちでしたが、臨月を過ぎ、もうそろそろ予定日だという頃になって、急に進展がストップしてしまいました。お腹の圧迫感が取れて胃がすっきりするようになって食が進むとか、お腹が見た目にも下に突き出してますます歩きにくくなるといった、この時期にあってもいいはずのサインがなかなかやってこないのです。
検診のたびに医師がハッパをかけるようになってきました。
「そんな程度の運動じゃ、ぜ〜んぜん話にならん。」
「(実家の)お母ちゃんにもっとこき使われてきなさい。」
すっかり意気消沈した彼女を励ましながら、実家に送り届ける私でした。

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