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息子が誕生(その2)

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コンテンツ掲載日:2004年01月12日
最終更新日:2007年02月20日

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◆子どもと母体のためとはいうけれど

新しい年が明け、2002年1月の中旬、いよいよ予定日がやってきました。この日はちょうど検診の日でもありました。
私の励ましが効いたのかどうかは定かでありませんが、この頃の彼女は医師を見返してやろうと躍起になっており、実家の周囲を毎日数時間歩きとおしていました。
しかし、結果は「ノー」。
挙句に下された診断は私たちに、少なからぬ衝撃を与えました。
「このまま出産の時を待っていては、母体にも赤ちゃんにも無理がかかります。次回は4日後に来て下さい。そこで入院してもらいます。さらに陣痛促進剤を投与して出産させます。これは、自然分娩と勝手が異なり、陣痛が始まって出産し終えるまで長い時間がかかるかもしれないけれど、頑張り通すように。」
クスリを使って人工的に出産を早める方法があることは、本や出産関連のサイトを通して知ってはいましたが、これまで順調に過ごせてきたわが妻がこのような目に遭うことには、正直抵抗がありました。しかし、この診断を耳にして一番辛いのは母親になる彼女自身のはず。私は自らの不安を悟られないように「先生は、母親と赤ちゃんの安全のために一番良い方法を示してくれたと思う。先生の言葉を信じて、事実をきちんと受け止めていこう。」と声をかけるのが精一杯でした。

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◆運命の日、しかし急展開!

いよいよ入院の日がやってきました。新聞もまだ届いていない暗い時間に目を覚まし、クルマのエンジンをONにして名古屋を出発しました。こんな風にして家を出るのもとりあえず今日で最後になるのか…などと思ったりもしましたが、やはり気にかかるのが、これから始まるであろう長い長い時間のことでした。
紀勢町の実家にたどり着きました。
いきなりそこで知らされたのは「おしるし(陣痛の兆候)が始まった!」。
朝来た道を半ば戻るようにして、松阪市の病院に到着し受診。そこで受けた診断は、「陣痛促進剤の投与はとりあえず見送る。このまま入院して経過を見る。」というものでした。
これから出産までの長い長い戦いが始まるというのに、全身から力が抜けるような気持ちがしました。

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◆陣痛室

入院とはいうものの、いきなり病室に通されるわけではありません。通常の場合、赤ちゃんを出産する分娩室に隣接するような形で陣痛室と呼ばれる小さな部屋が用意されており、出産のために分娩室に入るまではここで時間を過ごすことになります。陣痛室は2部屋あり、うち1部屋には彼女の隣町から来たという先客がいました。大仕事を一緒に乗り切る同志ということで、挨拶をしておきます。(この方とは今でも年賀状のやり取りをしています。)
私たちの場合、「陣痛が本格化するまでは、病院内であれば出歩いてよい。」と言われました。薬に頼ることなく、何としてでも正常分娩で乗り切りたい彼女は、夜の9時過ぎまで、私を連れ立って、病院内を歩き通しました。
陣痛らしき兆候は、夕方の4時を過ぎたあたりから始まりました。本で見るような周期的に訪れる痛みはまだなく、これが陣痛かなと思わせる程度のものでした。4〜5時台は2回、6時台になって4回、7時台にはどういうわけか1回という具合です。まだまだ道のりが長いことをつくづく感じさせられました。この日はこのような経過で推移しました。
日付が変わり、真夜中の1時を過ぎると、痛みが周期的にやってくるようになりました。その周期は明け方までにだんだん短くなってきます。
隣室にいた方は、夜中の2時頃に分娩台に上り、大きな悲鳴をあげていました。そして、あらん限りの声を振り絞ったかと思うと、続いて産声が上がりました。この様子を自分のパートナーの姿とだぶらせた途端、自分に「誕生の瞬間に何としてでも立ち会う」という決意が湧きあがりました。実は、出産への立会いは、「彼女の希望に沿ったまでのこと。」というのが正直なところであり、最後の瞬間を見届けることが自分にできるかどうか不安だったのです。
朝の7時を過ぎた頃に、彼女の両親が訪れました。陣痛は2〜3分おきに襲ってくるようになりました。
両親の「とりあえず、寝ておきなさい。」の言葉に甘えて、部屋の脇のソファーに体をうずめますが、どうにも寝付けず、1時間も経たないうちに起き上がってしまいました。
11時に破水が起こりました。陣痛のペースは相変わらず。しかし体をさすり、支えなければ痛みに絶えられない様子の彼女。助産士の「まだこれからですよ。」の声が自分にはかなり残酷な言葉に聞こえました。

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◆分娩室

まもなくお昼の1時になろうかという頃、分娩室に通されました。
分娩室には、家族が一人だけ入ることが許されました。立会いには手の消毒とガウンの着用が求められました。渡されたガウンの着方が分からず、前後反対で分娩室に入ろうとしたことが、今となってはお笑い種です。
彼女が分娩台に上り、いよいよ我が子が誕生するまでの間、私のしたことは彼女がいきむ際に首と頭を支えてやること。のどを潤すためにお茶を飲ませること、声をかけて励ますことでしたが、実はそれ以上のことを記憶していません。後にして思えば、結構時間が経過しているはずなのですが。

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◆感動のご対面

「一生で一番感激した瞬間を1つだけ挙げよ」と問われたら、我が子が誕生したこの時を挙げることでしょう。かわり映えのしない言葉ですが思わず胸がじーんと熱くなりました。
午後3時19分、長男誕生。
「はじめまして。よくぞ生まれてくれました。」
つわりの苦しみ、出産用品の買い物、里帰り前の思い出づくり、医師の叱咤激励、その他いろいろな思いが一気に吹き出たこともあるのでしょうか、彼女は、息子の姿を一目見た途端に、泣き出してしまいました。
そして、そんな母親の泣き声を一気にさえぎるような出来事が次の瞬間に起こりました。
こともあろうに、わが息子、彼女の胸の上でいきなりオシッコを勢いよく発射したのです。幸い、顔面への直撃は免れましたが、こういうことはよくあることだそうです。
産湯で体をきれいにしてもらい、オムツと産着をあてがわれたわが息子は、薄目をあけて彼女の傍らで寝かされました。これは、「もう親が抱っこしてあげても良いですよ」という病院側の合図。そうとは知らないで子どもを眺めまわしたり、写真やビデオカメラで記録するのにおおわらわでした。
誕生したその日に親が抱っこしてやれなかったことは、一生の不覚の一つであると言っていでしょう。よりによって生涯で一番感動したその日に、こういうことになるとは、本当に残念なことでした。さて、このことを、わが子にいつどうやって白状しましょうか。

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◆いよいよ親になった

その日は、彼女の実家に泊まりました。夕方は、新米ママが不在でしたが、彼女の実家の家族と私で乾杯しました。これまでの疲れがどっと出たのか、布団に入った途端に意識がなくなったように記憶しています。
夜が明けました。目がさめると体のあちこちが痛い。変な姿勢を取り続けて彼女の体を支えていたせいかもしれません。
実家のある紀勢町から松阪市の病院までの道のりを再びクルマでたどります。とても良い天気。いつもならただそれだけなのですが、沿道の風景がいつもとちがって目に映ります。自分はついに親になったんだ。今日から、家族のために本当にがんばらなくてはならないという思いがそうさせていたのかもしれません。
病院に到着し、彼女と対面。死んだように眠りに落ちた自分とは対照に、こちらはよく寝付けなかったとのこと。分娩室からまもなく病室に移されたものの、同室者がメールを打ち続けるなど、せわしく過ごしていたために落ちつかなかったと話してくれました。
さて、ガラス越しに生後2日目のわが子の様子を見る。新生児室はまさにベビーブームの様子。あちこちで元気に泣き声が上がっていますが、わが子はいつ覗きに出かけてもスヤスヤとしていました。このマイペースぶりは、私たちに「この子、ひょっとして将来は大物?」とも思わせてくれました。

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◆雨はママの涙、雷はパパの怒り

出産後の経過が順調に推移しているので、翌日は出勤しようと名古屋に戻った晩のこと、妻の信じられないような電話のために、次の日も松阪行きになってしまいました。
その晩、彼女はちょっと用を思いついたので、消灯後の病棟の廊下を歩いていました。看護師の詰所のあたりで、病院スタッフの何気ない会話に彼女自身のことが話題になっているのを耳にしました。その会話によれば、「鬼頭さんの奥さんって、ちょっと変わってない?」というような話だったとか。その言葉が耳から離れなくなって不安が極度に高まり、「病院で何もしゃべることができなくなりそうだ」と言うのです。
事実はどうであるかは分かりません。単に彼女の聞き違いであるかもしれません。しかし、彼女の話す様子から、これを放置すると状況がただごとならぬ方向に行きそうだと悟った私は、翌日の出勤を取り止め、次の日も松阪を目指すことにしました。
翌日の名古屋は大雨。自分の精神状態も良くないのでクルマで出かけるのは危ないと思い、この日は電車を利用しました。
松阪も大雨。この季節にはおおよそ似つかわしくない雷鳴までもが加わりました。不用意な発言をしたかもしれない病院のスタッフ、そしてなかなかやって来ないバスに苛立ちと怒りをおぼえながら、松阪駅にしばしたたずんでいました。
病院に到着すると、一目散に窓口に直行。職員の服務に関する責任者との面談を申し入れました。通された応接室で、これまでの状況を話し、次の通りお願いをしました。
「まず、事実を調査すること。」
「事実を調べた結果、病院側に落ち度があれば、再発防止について努めること。」
「その上で、妻が受けたダメージの回復に全力を尽くしてほしい。」
「こちらとしては、母子が元気に退院してくれることが最優先である。あえて職員の処罰は求めない。」
「一連の調査結果について、分かったことをきちんと説明してほしい。」
今にして思えば、これまでの自分では考えられないような強気な行動でした。
言うべきことを言い終えた後、彼女の元へ顔を出しました。少し眠ったこともあるのか、想像したよりも良い顔色でした。病院に対して自分が話したことを一通り説明し、納得してもらいました。その上で、こんなことも話しました。
「病院のスタッフが入院している者の噂話をしていることが事実とすれば許されることではない。でも、相手も人間だからそういう失敗は十分にありうる。自分たちも他人の噂話をしょっちゅうするではないか。」
「夜中にフラフラ歩いているとこういう目に遭うことは十分にありうる。それ以外にも病院というところでは何が起きているか分からないものであるから、不用意に出歩かない方がいい。」
しばらくして、看護師の責任者(いわゆる婦長さん)がこの件で心配をかけたことをお詫びしにやって来ました。私はその場を離れましたが、妻と彼女の間でいろいろ話がされたようで、これで問題はひとまず解決しました。

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◆退院 妻の実家へ

出産から5日目、退院の日を迎えることができました。いろいろありましたが終わってしまえばみんな「思い出」です。
これからわが子をクルマに乗せて実家を目指しますが、緊張したのは、子どもをチャイルドシート(ベビーシート)に乗せる時でした。
あらかじめ、製品に付属しているビデオを見るなどして、イメージトレーニングに努めていましたが、いざ、子どもを乗せてみると、ベルトとベルトの間から手足を通すのにもおっかなびっくりでした。大切な子どもの体を傷つけないかとハラハラしどおしでした。
頭を天井にぶつけても、「あ、ごめんね。」で済ませてしまう今の横着ぶりを思うと、信じられないような話です。
真冬とはいえども、汗ばむような病院とはうってかわって、紀勢町の実家は、多くの日本家屋がそうであるように、暖房器具を使っても部屋の一部しか温まらないような状態。
子どもが寒くて泣き出したりしないだろうか神経を使いました。
生まれてしばらくは、3時間おきの授乳が日課です。自分も授乳に付き合いましたが、特に夜間の授乳は、「暗い・眠い・寒い」の三拍子が揃っており、これは確かに大変。数ヶ月で終わることとはいえ、それまで2人とも持つかしら…と正直思いました。

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◆命名

「名前」とは、親が最初に子どもにプレゼントしてやれるもので、その子にとってはよほどのことがない限り、一生を共にする大切なものです。
命名には、仮名文字または人名漢字と呼ばれるものを用いることが必須ですが、この頃はそうであっても読むのに難解、字面からは性別がよく分からないというものが氾濫しています。わたしはこうした傾向に対して、はっきり「NO」の考えを持っています。
自分の名前は確かに自分のものであるけれども、他人が正しく読んで書き、そして声に出して呼んでくれることが何より大切ではないでしょうか。親が良かれと思って付けた名前を、他人が間違って書いたり読んだりしたことが原因となってあだ名になってしまい、その結果、子どもがからかわれるというのは可愛そうなことです。
そういうわけで命名にあっては、平易な文字で読みやすいことが第一条件です。そうした上で、親がこんな人間に育ってほしいという思いを込めておきたい。これについては、出産前から妻とも議論に議論を重ねました。命名は、姓名判断をする最後の最後まで難航しましたが、結果として、わが子には自分にとって理想的な命名ができたと自負しています。

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